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大谷吉継について
大谷吉継は、戦国時代から安土桃山時代にかけての越前敦賀の国を治めていた大名(越前敦賀城主)です。豊臣秀吉の家臣で、官途は刑部少輔であったことから「大谷刑部」とも呼ばれます。戦国時代では珍しく友情を重んじたことでも知られています。病を患い、眼疾のために失明して関ヶ原の戦いでは輿に乗って軍の指揮を執りましたが、小早川秀秋らの離反で敗戦すると家臣・湯浅隆貞の介錯で切腹をしました。大谷吉継は優秀な戦略家で、この戦いが負けることがを事前にわかっていたといいます。それでも負ける側に参戦したのには理由がありました。石田三成との友情です。
大谷吉継と石田三成の友情
大谷吉継と石田三成の出会いは、豊臣秀吉が近江長浜城の城主となったときに二人が小姓として取り立てられたことから始まります。
豊臣秀吉の天下統一に向けた動きが加速する中、大谷吉継は九州征伐や堺の統治において、石田三成の下で活躍をします。その後、豊臣秀吉から越前国敦賀郡2万余石を与えられ敦賀城主となるのですが、その2年ほど前、大谷吉継と石田三成の友情をさらに深くする出来事があったといわれています。
大谷吉継は当時難病といわれた病に冒されていました。豊臣秀吉主催の大阪城の茶会で、茶碗を回し飲みする際に、大谷吉継の飲んだ茶碗で飲むことを、その会場にいた誰もが嫌がった所、石田三成だけが平然と茶碗を飲み干し、もう一杯所望したという話が残されています。大谷吉継はこのときの石田三成の言動に心を打たれ、後の関ケ原の合戦への参戦に繋がったといわれています。また、大谷吉継と石田三成は、それぞれが真田家と縁戚関係にあったことも、二人の友情を繋ぐ一因だっかかもしれません。
大谷吉継Tシャツについて
大谷吉継のイラストは、浮世絵師の落合芳幾による「太平記英雄傳 大谷刑部少輔吉隆」の浮世絵になります。
「太平記英雄傳」は、1797年(寛政9年)から1802年(享和2年)にかけて上方で出版されました。そこに描かれた挿絵を元に、絵師である落合芳幾が浮世絵として描いた全100点のシリーズものの一作がこの「太平記英雄傳 大谷刑部少輔吉隆」です。
ちなみにこの作品名が「大谷刑部少輔吉隆」となっているのは、大谷吉継が関ケ原の合戦で石田三成側に加わる頃から「大谷吉隆」に改名していることからきています。江戸時代中期の儒学者である安積澹泊の『烈祖成績』によると、「吉継」という名前が信長に反抗して攻め滅ぼされた三好義継に音が通じることを忌み嫌ったため改名したといわれています。
句に隠された、もう一つの友情物語
Tシャツには下記の句がプリントされています。
「契りあらば 六の巷にまてしばし おくれ先立つ事はありとも」
これは辞世の句でありながら、実は大谷吉継から、とある人物への返句といわれています。
それは、豊臣秀吉の臣下時代から共に戦い、最後まで大谷吉継の陣の前線で戦い続けた平塚為広という武将に対してでした。
大谷吉継と平塚為広は、永きに亘り戦場を共にしたことで育まれた深い信頼関係と強い友情で繋がっていたといわれています。
関ケ原の合戦で奮戦した平塚為広は、最後に辞世の句を大谷吉継に送ります。
「名のために 棄つる命は惜しからじ 終にとまらぬ浮世と思へば」(永遠に生きられるわけではないので、名誉のために捨てる命ならば惜しくはない)
それに対して大谷吉継は、冒頭の返句をして自刃したといわれています。
「契りあらば 六の巷にまてしばし おくれ先立つ事はありとも」(縁があればまた会えるだろうから、六道の分かれ道でしばらくまっていてほしい。共に冥途に行きましょう)
「六つの巷」とは仏教でいう「六道の辻」のことで、生前の行いによって死後にいくことになる6つの世界に続く分岐点のことを指しているといわれています。
徳川家康と戦うことを決意した石田三成に対し、大谷吉継と平塚為広は、敗戦を読み三成を止めていたといわれています。しかし説得の甲斐なく、関ケ原の合戦が始まってしまいます。敵軍に対し奮戦する大谷陣営ですが、小早川秀秋の裏切りに端を発した裏切りの連鎖で四方を敵に囲まれ自刃します。ちなみに、大谷吉継の陣は小早川秀秋の布陣のあった松尾山城に向かって構築されていたことが確認されており、小早川秀秋の裏切りをも事前に想定していた程の優秀な戦略家だったことがわかります。
西軍の敗けを覚悟した上での奮戦、そして敗戦からの辞世の句。前後の流れを見た後ですと、大谷吉継と平塚為広の二人の辞世の句がより一層味わい深く感じられてきます。
大谷吉継の2つの家紋
1585年(天正13年)の豊臣秀吉の関白就任と時を同じくして、大谷吉継は従五位下刑部少輔に叙任されます。これにより「大谷刑部」と呼ばれるようになるのですが、「古今武家盛衰記」によると、このときから家紋を「違い鷹の羽」から、「対い蝶」に変更したとされています。
蝶は平安時代から装飾文様として使われていました。古くは、平安末期の平氏一門・一族で、家紋として様々な形の蝶紋が用いられており、平氏の後継を称していた織田信長も蝶の紋を一時期使用していました。大谷吉継の用いた「対い蝶紋」は2匹の蝶が向き合った形をしており、桓武平氏の流れを組む平維衡の氏族である伊勢氏が使用し、その後は北条早雲が使用したことでも知られています。蝶紋は蝶自体に何か意味合いを持たせた家紋というよりも、その歴史やそこに流れる家系の血の繋がりを示すための家紋であると言えそうです。
◆Tシャツの素材
4.4oz(150g/m)
綿 100%
BODYカラー:白
プリントカラー:表/印刷なし 裏/カラー
◆サイズ展開
サイズは、SS〜4Lサイズの7種類あります。
サイズはオプションから選択してください。