6005-17 東洲斎写楽「中山富三郎の宮城野」Tシャツ




----------   商品説明  ----------

東洲斎写楽「市川鰕蔵の竹村定之進」の浮世絵Tシャツ
東洲斎写楽「市川鰕蔵の竹村定之進」の浮世絵のTシャツです。
江戸時代中期の浮世絵師、東洲斎写楽の作品となります。
1794年(寛政6年)5月、歌舞伎劇場の桐座で上演された「敵討乗合話」という演目の中で、中山富三郎の演じる「宮城野」を描いた作品です。演目名の通り親の敵討ちの話で、親の仇である志賀大七を妹のしのぶと共に討つ宮城野が描かれています。役者の中山富三郎は、ぐにゃぐにゃしたせりふ回し(口跡)や仕草で女性らしさを演出することを得意としており、「ぐにゃ富」というあだ名で人気を博していました。中山富三郎扮する宮城野の、ゆったりとした和やかな雰囲気が感じ取れる作品です。



◆東洲斎写楽とは
1794年(寛政6年)5月から1795年(寛政7年)1月までの約10ヶ月という短い期間に、145点余の作品を版行したのち、忽然と画業を絶って姿を消した謎の絵師として知られています。様々な研究がされていますが、当時の能役者斎藤十郎兵衛ではないかとする説が有力となっています。東洲斎写楽の人物画(「大首絵」と呼ばれます)は、目の皺や鼻、受け口、表情やポーズなど、その役者のもつ個性を大胆かつ巧みに、そしてダイナミックに誇張する画風を特徴としています。時期により「東洲斎写楽画」及び「写楽画」の2種類の落款を使い分けていたことも知られています。



柔らかなの所作の表現
東洲斎写楽 「市川鰕蔵の竹村定之進」の表情肩からの線、左手の腕の角度と指の描写に、中山富三郎の「ぐにゃ富」と呼ばれる芸風を感じると共に、女性らしくどこかふんわりと柔らかい所作を巧みに描き切っています。





中山富三郎扮する宮城野の表情
中山富三郎扮する宮城野の表情面長の顔、つりあがった眉、小さな眼、おちょぼ口としゃくれた顎。個性的なパーツと、そのバランスが絶妙でより一層個性が引き立っています。
女性の頭上に見える、紫色の布は紫帽子と呼ばれるものです。昔のかつらは、今よりも単純なつくりだったので、額の生え際の見栄えがよくなく、その難点を隠すためにやむを得ず布を付けていました。老けた役では地味な紫、華やぎのある役では、やや赤みの強い派手な紫といった具合に、役に合わせて色味を微妙に変えています。




中山富三郎の「丸に五三桐」紋
中山富三郎 の「丸に五三桐」紋当時、「この家紋といえばこの役者」と分かるくらい、役者ごとに家紋がつくられていました。この家紋は、流派で決められたものであったり、当代のアレンジが加えられたものであったりするわけですが、中山富三郎は「丸に五三桐」と呼ばれる紋を使っていました。丸に五三桐は、高級木材として有名な桐の木をモチーフにした紋です。この紋は、中国の神話に登場する鳳凰とその止まり木である桐からきているといわれています。そのため、元々は皇室の家柄で用いられる紋でした。
しかし、鎌倉幕府の滅亡後、後醍醐天皇により足利尊氏へ桐紋が下賜されたことで、臣下の身分である者でも桐紋を使用できる前例がつくられます。豊臣秀吉の時代には、配下の大名家への賜与のみならず、城や寺社の外装や貨幣にまで桐紋が用いられ始めました。と同時に、豊臣秀吉から桐紋を賜った大名家が、さらに自らの配下武将にその桐紋を賜与し、この紋が中下流の武士階級や一般庶民にも身近な存在となっていきます。その後の徳川政権下では、桐紋ではなく葵の紋が使われるのですが、一般庶民の間の家紋需要の高まりを受け、限られた家柄しか使えない葵の紋ではなく、当時使用制限のなかった桐紋が普及し、世間でも一般的な家紋へと普及していきます。今日では定番家紋としてお馴染みで、紋付きのレンタル衣装にも用いられるなど目にする機会が多い家紋だといえます。




プロデューサーは蔦屋重三郎
落款版元(プロデューサー)である蔦屋 重三郎の落款が押されています。東洲斎写楽の版元が蔦屋 重三郎であることを表しています。レンタルビデオのTSUTAYAは、その社名の由来として、蔦屋 重三郎にあやかったともいわれていますが真偽は定かではありません。






◆素材
4.4oz(150g/m)
ポリエステル 100%
BODYカラー:白
プリントカラー:カラー
昇華転写プリント

◆サイズ展開
サイズは、SS〜4Lサイズの7種類あります。
サイズはオプションから選択してください。

販売価格 3,850円(税込)
 
SS
S
M
L
LL
3L
4L
Tシャツのカラー
サイズ

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